テレビドラマとドキュメント

慶応四年一月に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは目付を務め、大阪に敗走後、江戸に帰還。その後も在隊し、甲州勝沼の戦いを通して会津にへ向かい、同年八月二十一日の母成峠の戦いで敗走。二十二日に斎藤一こと山口次郎ら38名と共に会津若松城下外堀外の斉藤屋に宿泊した記録を最後に消息を絶った。会津まで新選組に同行した副長助勤は、この尾形と斎藤のみである。尾形の消息は判然としていない。中島登は「行方不明」とし、横倉甚五郎は「会城に残る」としている。いずれにしても新選組本陣から離れており、その後は以下のような諸説があるが、どれも確証がない。尚、会津三代の正福寺に松本喜次郎の墓と共に「尾形」という姓の新選組隊士の墓があったという伝承があるが定かではない。

5月に壬生浪士組が会津藩主松平容保に拝謁した際に平山は土方、藤堂平助らと剣術の稽古を披露している。6月3日、不逞浪士取り締まりのため芹沢、近藤、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、野口健司、井上源三郎、島田魁そして平山の10人が大坂へ下った。淀川で舟遊びをしていると斎藤が腹痛を起こしたため船を下りて新地の遊郭へ向かった。途中、力士が無礼を働いたため殴り倒した。浪士たちが遊郭へ登ると力士の仲間たちが駆けつけ乱闘となった。力士たちは樫の棒で打ちかかってきたが、浪士たちはこれを撃退し、力士に多数の死傷者が出た。浪士に死者はなかったが、平山が胸を打たれて負傷した。8月12日、芹沢は生糸問屋大和屋を焼き討ちする乱暴を働いた。

以降マキノの看板スターとして、この年、実に20本近い数の映画に出演、「鞍馬天狗シリーズ」のほか『鳴門秘帖』・『百万両秘聞』などでもヒットを飛ばす。マキノでの2年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を3作演じている。1928年、『新版大岡政談 前編・中篇』のニ作で丹下左膳を演じたのを最後に、「マキノ御室撮影所」から独立、「嵐寛寿郎プロダクション」を設立。独立の理由には、鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢があった。この独立に際して長三郎の名を返上し、葉村屋の最高位の名跡である「璃寛」からとった、「嵐寛壽郎」を名乗り、以来生涯この名で通す。

暴力団・窃盗犯などのアウトローに対し、ユーモアやペーソスを交えながら、肯定的に描くことが多い。自ら認めるヘビースモーカーであり、エッセイ「勇気凛凛ルリの色」のシリーズにて、「喫煙権について」などの稿で、喫煙者の立場から喫煙の権利を訴えている。また前述の競馬以外にもギャンブル全般が趣味で、『オー・マイ・ガアッ!』といった小説や、『カッシーノ!』などのエッセイがある。作品の舞台については、各種資料で調査しているが、現地を訪れることなく書かれた作品も多い。現地を見ないで書いた方が、ロマンのある作品になるともいう。

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