慶応3年(1867年)とドキュメント

この4年間の日活時代が最も脂が乗っていた時期といわれ、『鞍馬天狗』『むっつり右門』の二大人気シリーズのほかに『髑髏銭』、『出世太閤記』、『海援隊』等の佳作を輩出。 『出世太閤記』では、主君・織田信長の御前で、滔々と淀みなく長ゼリフを披露する場面が圧巻であった。日活では都合「鞍馬天狗」を7作、「むっつり右門」を5作演じている。1942年、日活京都を退社。大映京都撮影所へ移る。同年、大映移籍第一作『鞍馬天狗』公開。

会津藩は降伏後改易され、松平家は家名断絶となったが、明治2年11月3日に再興を許された。知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北かを松平家側で選ぶこととされた。東京で捕虜となっていた山川浩ら旧藩幹部は、高田で謹慎していた藩士らに諮ることなく下北を選択。藩名は新たに斗南藩と命名された。斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴く。斎藤は、斗南藩領の五戸に移住し、篠田やそと最初の結婚をした。篠田家は「諸士系譜」からも確認される名家で、会津藩士としては大身に属する。白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁にあたる。のち、容保の上仲人、佐川官兵衛と倉沢平治右衛門の下仲人で高木時尾と結婚した。時尾とのあいだには、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の息子が生まれた。その後東京に移住。新たに募集された警視官に応募し、採用された。明治10年2月には警視局の警部補に任ぜられる。同年2月15日、西南戦争が勃発。豊後口警視徴募隊に抜刀隊として参加し、同年5月に戦闘参加。抜刀斬り込みの際、銃撃戦で負傷するがその天才的な剣技と指揮力で、薩摩兵を圧倒。大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍をしている。

尊王攘夷運動に奔走すべく藩を脱した三樹三郎は、江戸深川の道場主・兄伊東のもとに身を寄せる。桜田門外の変後、浪人に対する詮議が厳しくなった江戸を離れ、数年もの間、常陸国多賀郡にて隠棲する。天狗党の争乱の際は、伊東の探索依頼を受けて志筑へ戻ったが、争乱終結後は帰順することなく江戸へ戻る。1864年10月、旧知である藤堂平助の隊士募集の求めに応じ、伊東や篠原泰之進らと共に上洛する。のち、正式に新選組に加盟する。このころ、三木三郎と称す。目付を務めた後、1865年に九番隊組長。1868年3月、伊東らと共に新選組から分離し、御陵衛士に属す。三樹三郎や三木和泉と称する。同年11月、暗殺された伊東の遺体収容時、迎撃する新選組との乱闘を切り抜けて薩摩藩邸に保護される。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の中村半次郎の指揮下に入って新選組と戦い、後に東征軍の先鋒隊に合流する。のちに赤報隊の二番隊長を務めたが、相楽総三らの偽官軍事件に連座した疑惑によって入牢した後、新政府の徴兵七番隊に加わる。6月には軍務局軍曹を拝命して江戸へ下向し、戊辰戦争では北越や会津における戦線を戦った。

宝塚映画では「鞍馬天狗」を3作、「むっつり右門」を4作演じた。1956年、『怨霊佐倉大騒動』に出演、新東宝時代の代表作のひとつに数えられる。1957年、『明治天皇と日露大戦争』で明治天皇を演じる。

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