全集・選集と主な出演

佐伯の謎の解明は、当時の関係資料や、当時の関係者の証言の少なさから、不可能に近い。2004年の大河ドラマ『新選組!』では、壬生浪士が本拠を置く八木家の奉公人として登場する。志願して壬生浪士組に参加し、筆頭局長の芹沢鴨に取り入りひたすらゴマをする一方、下の身分の人間には威張りちらし、周囲をあきれさせる。 しかし彼自身は武士への憧れが人一倍強く、出世に努力を惜しまないかたわらで、影では立派な刀を購入する為の貯金をしていた。

文久3年2月 清河八郎献策の浪士組に参加。芹沢鴨の六番組に配属され上京。清河の画策によって浪士組が江戸へ帰還すると、芹沢、近藤勇らとともに京都に残留。残留浪士たちは京都守護職会津藩御預りとなり壬生浪士組を結成。平山は幹部の副長助勤となった。壬生浪士組は芹沢鴨、新見錦ら水戸派と近藤勇、土方歳三らの試衛館派に分かれ、平山は水戸派に属し芹沢と行動を共にする。5月に壬生浪士組が会津藩主松平容保に拝謁した際に平山は土方、藤堂平助らと剣術の稽古を披露している。6月3日、不逞浪士取り締まりのため芹沢、近藤、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、野口健司、井上源三郎、島田魁そして平山の10人が大坂へ下った。淀川で舟遊びをしていると斎藤が腹痛を起こしたため船を下りて新地の遊郭へ向かった。途中、力士が無礼を働いたため殴り倒した。浪士たちが遊郭へ登ると力士の仲間たちが駆けつけ乱闘となった。力士たちは樫の棒で打ちかかってきたが、浪士たちはこれを撃退し、力士に多数の死傷者が出た。浪士に死者はなかったが、平山が胸を打たれて負傷した。

撃剣師範に就いていたが、表立った斬り合いの記録は少ない。屯所移転について西本願寺に交渉しに行ったり、三条制札事件の詫びを目的とした土佐藩の饗応に吉村が出席したりしているが、天満屋事件で三浦休太郎の護衛の任についていた時には、とくに吉村が斬り合った記録はない。どちらかといえば、論客として活躍したようである。慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、戦死したのか、脱走したのか、以後の消息は途絶える。子母澤寛によれば、新選組が大阪を離れている事を知った吉村は路頭に迷い盛岡藩邸に帰藩を願うが、差配役の大野次郎右衛門に、武士にあるまじき行為と咎められ切腹を申し付けられ、盛岡藩邸の中で切腹して果てた。切腹した部屋には、二分金十枚と紙切れが置いてあり、紙切れには家族への送金を願う文が記してあった、という。但し、大野次郎右衛門なる人物は架空の人物であることがわかっており、吉村の最期は子母澤寛の創作である可能性が高い。子孫の嘉村家の過去帳には、明治三年一月十五日没、とあるという。

1989年、1月に昭和天皇が崩御し、平成と改元。正太郎も前年末から体調は芳しくなかったが、回復を待って『剣客商売 浮沈』、『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』、『鬼平犯科帳 誘拐』の連載を開始した。5月には銀座和光で個展「池波正太郎絵筆の楽しみ展」が開催された。明けて1990年、二代目中村吉右衛門主演のテレビドラマ『鬼平犯科帳』が好評を博し、2月には同優主演の『狐火』が歌舞伎座で上演されるが、正太郎の体調は依然芳しくなかった。3月、急性白血病で三井記念病院に緊急入院、5月3日に同病院にて逝去。67歳であった。連載中の『仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨』と『鬼平犯科帳 誘拐』は同年4月号分で未完中絶となった。5月6日、千日谷会堂にて葬儀及び告別式。山口瞳が弔辞を読んだ。法名戒名は「華文院釈正業」。浅草西光寺に葬られる。没後、勲三等瑞宝章受章。1998年11月、長野県上田市に「池波正太郎真田太平記館」が開館した。自衛隊に入隊、のちアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説ののち、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説やエッセイのほか、『蒼穹の昴』『中原の虹』などの中国歴史小説がある。映画化、テレビ化された作品も多い。日本の大衆小説の伝統を受け継ぐ代表的な小説家といえる。2008年現在、直木賞、吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞選考委員。

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