ドキュメントと以上の主な出典

嫡男の雷太郎は詮議を恐れて本間歌吉と改名し、下谷稲荷町に鼈甲職の店を構えたという。丹後国宮津出身。元々浪人であったが、1864年12月までの京坂における隊士募集に応じて加盟する。伍長、諸士調査役兼監察、勘定役並小荷駄方、勘定方などを務めた。なお、行軍録においては、谷三十郎が指揮する八番大炮組に属している。新選組の幕臣取立て論に反対して脱退を申し出ているが、1867年6月の幕臣取立て時には、見廻組並御雇となっている。同年11月17日には、「伏見御用」として25両を原田左之助とともに受け取るとの記録が残っており、また、永倉新八の「浪士文久報国記事」によれば、伊東甲子太郎暗殺にも関与したとされる。1868年の鳥羽伏見の戦い後に江戸へ帰還する。甲陽鎮撫隊には歩兵頭として従軍するが、甲州勝沼の戦いで負傷して再度江戸へ帰還する。同年2月の脇差購入の記録を最後に消息が不明となり、その後、隊を脱したと思料される。

明治3年8月15日、獄死。享年37。弁天台場降伏時に詠まれた辞世の句が残る。戊辰戦争時、同藩士森常吉などと共に藩主・松平定敬を護衛して蝦夷地へ渡り、土方歳三配下の新選組に入隊して箱館戦争に参戦する。 なお、蝦夷地へ渡航するためには新選組隊士とならなければならなかった。

慶応元年4月の土方歳三、伊東甲子太郎、斎藤一らによる隊士募集に応じて、17歳で新選組に入隊。同年5月10日、京都へ入る。慶応3年6月に新選組の幕臣取り立てが決定すると、尊皇攘夷思想の強かった佐野七五三之助・茨木司・富川十郎らと共に脱退を決意して、伊東らが新選組と分離して結成していた御陵衛士への入隊を希望するが拒否されてしまう。行き場を失った中村らは、会津藩京都守護職邸へ新選組脱退を嘆願するも、上手く事は運ばず、同地にて自刃。享年19。戊辰戦争時、流山で局長近藤勇が新政府軍へ出頭すると、新選組本隊とは別行動を取った副長土方歳三に従って、大鳥圭介ら旧幕府軍と合流。宇都宮、会津へと転戦して、母成峠の戦いで戦死した。享年31。

子母澤寛著『新選組物語』には、男色家の武田観柳斎に惚れられて迷惑し、副長土方歳三に訴えて脱退させてもらったとの話が残るが、子母澤の創作だと言う声もある。同書によれば、隊務が無い時はおしゃれな恰好をして出かけ、笑うと両頬にえくぼができ、笑う時も怒る時もまるで若い女のようだったらしい。明治20年頃に壬生を訪れた時も若々しく、27、8歳にしか見えなかったと言う。入隊は文久3年秋以降。元治元年6月5日の池田屋事件では、土方歳三の隊に所属し、屋外の守備を担当した。後に十五両の褒賞金を得ている。同年12月の編成では、松原忠司の七番大炮組に所属し、慶応2年の三条制札事件では原田左之助らと共に、土佐の藤崎吉五郎を斬り、十五両の恩賞金を得た。

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