ドキュメントとテレビアニメ

1951年、『鞍馬天狗・角兵衛獅子』で「杉作」役の美空ひばりと共演。松竹京都では、「鞍馬天狗」を3作演じた。以後、年に8本前後のペースで数多くの時代劇映画に主演、衰えぬ華麗な剣戟をみせる。

慶応3年11月の油小路事件では、大石が伊東甲子太郎を暗殺。 また12月の天満屋事件では乱闘の斬り合いの中、紀州藩士 三浦休太郎の護衛の任務を斎藤一らと共に果たしている。慶応4年1月鳥羽伏見の戦いに敗れ、大石も新選組の同志と江戸に撤退する。 近藤が甲陽鎮撫隊を組織すると、先触れとなって甲州に出張した。慶応4年3月に甲陽鎮撫隊が敗走すると、大石の消息もわからなくなった。その後、妻子らと江戸に潜伏していたが、12月頃、懇意だった元隊士・三井丑之助に騙され捕縛される。一説には、大石は生きるに困り、油小路で自分が殺した伊東甲子太郎の一派であった加納鷲雄を訪ね、官軍になっていた加納に仕官を懇願したが容れられずに捕縛されたとも言われるが、そのような証言の記録は無い。加納の同志である阿部十郎の証言とも矛盾する為、小説家・子母澤寛の創作である可能性が高い。

1988年、第6回川喜多賞を受賞。1997年、12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていた。遺作は1995年の『深い河』だった。1951年に『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、クロサワとともにミフネの名も世界に知れ渡った。1961年に初の海外作品『価値ある男』ではメキシコ人役で主演。その後の海外の名優との競演は、以下の作品などが挙げられる。

備中松山藩士・谷三治郎供行の二男として備中松山に生まれる。幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。安政3年10月頃、不祥事案により谷家は断絶となる。断絶後は、兄三十郎と共に故郷を出奔する。公卿中山家の侍医・岩田肥後之丞文碩の食客となり、その娘スエを娶り、大坂南堀江町にて道場を開く。1863年頃、新選組に加盟する。池田屋事件では土方隊に属し、報奨金20両を賜る。同年12月の編成では二番組に属する。大坂でのぜんざい屋事件では、兄三十郎や阿部十郎らとともに大利鼎吉を討った。大坂にあって屯所隊長を務めたが、主に別行動をとることが多く、在籍は確認されるものの、兄三十郎の死後に離脱したものと思われる。

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