ドキュメントと全集・選集

戊辰戦争時、同藩士森常吉などと共に藩主・松平定敬を護衛して蝦夷地へ渡り、土方歳三配下の新選組に入隊して箱館戦争に参戦する。 なお、蝦夷地へ渡航するためには新選組隊士とならなければならなかった。敗戦後、警視庁に務めて明治政府に出仕。西南戦争の際には、藤田五郎らと同じく警視局の部隊に所属して奮戦した。その後、三重県尾鷲警察署の巡査に就任し、退職後も商社などの警備員を引き受けていた。背に髑髏の刺繍が施された陣羽織を着ていたらしい。酒好きで、酔っぱらうと箱館戦争のことをよく話した。最後には必ず「土方歳三は本当にええ男やった」としみじみ語ったと言う。

斎藤は、斗南藩領の五戸に移住し、篠田やそと最初の結婚をした。篠田家は「諸士系譜」からも確認される名家で、会津藩士としては大身に属する。白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁にあたる。のち、容保の上仲人、佐川官兵衛と倉沢平治右衛門の下仲人で高木時尾と結婚した。時尾とのあいだには、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の息子が生まれた。その後東京に移住。新たに募集された警視官に応募し、採用された。明治10年2月には警視局の警部補に任ぜられる。同年2月15日、西南戦争が勃発。豊後口警視徴募隊に抜刀隊として参加し、同年5月に戦闘参加。抜刀斬り込みの際、銃撃戦で負傷するがその天才的な剣技と指揮力で、薩摩兵を圧倒。大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍をしている。明治24年、警視庁を退職し、その後は東京高等師範学校などに守衛として勤務した。大正4年9月28日、胃潰瘍のため死去。床の間に座ったまま往生を遂げたと伝えられる。享年72。墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。

育英高専工業デザイン学科卒業後、1986年ソニーデザインセンターに勤め、1991年独立、以後フリーランスデザイナーとして活動、現在はIWASAKI DESIGN STUDIO代表も勤める。過去にA1403K、A5405SAを手がけた縁からauのAu design projectに草間彌生と共に参加、iidaのG9およびlottaのデザインも手がけている。グッドデザイン賞審査員、日本を代表するプロダクトデザイナー100人に選出された 。

阿波の出身。大阪とも。文久三年六月以降に新選組に入隊。八月十八日の政変に参加したが池田屋事件には不参加。慶応元年七月までの在隊が確認されている。このときに松原忠司とともに柔術師範となる。慶応三年頃に知友の村田左衛門に隊内の機密情報を漏洩。当時、五十歳前後とされ、隊内最高齢者であったという。また、碁打ちを好んだという。漏洩が関係したのか、同年六月以前に脱走した。その後の消息は不明。備中松山藩士・谷三治郎供行の二男として備中松山に生まれる。幼少期より父三治郎から武術を学ぶ。安政3年10月頃、不祥事案により谷家は断絶となる。

戻る