TVドラマと短編集ほか

新選組初期に、長州藩・桂小五郎の命で間者として入隊したとされる。若々しく目がぱっちりした色白下ぶくれの顔で、女のように優しい声をしていたと言われる。自称、京都浪人17歳。元治元年9月26日の濃霧の朝4つ時、新選組屯所の1つとして使われていた前川邸の門前でぼんやりしていたところを近藤勇より命を受けた原田左之助に背後から斬りつけられ、そのまま水菜畑に逃れ倒れて死亡した。

隊内では主に対外的な職務や要人の接待などの総務を担当。同門の近藤や土方とは絶大な信頼で結ばれており、2人をよく補佐していた。八木為三郎は「井上はその頃四十歳くらいで、ひどく無口な、それでいて非常に人の良い人でした」という旨の発言をしており、実際に若い隊士からの人望も厚かったという。一方で頑固な面もあり、一度言い出すとテコでも動かないところがあった。また、壬生で子供たちと遊んでいた沖田総司が通りがかりの源三郎に「また稽古ですか、熱心ですね」と声をかけると、「わかっているなら稽古をしたら良いのに」とたしなめたというエピソードが残っている。

1957年、千鳥が淵におけるロケが皇太子明仁親王。医者から高血圧の予防に「くるみの実を手の中で転がしておくように」と言われ、「どうせなら」と、パチンコ店に通い始めた。「趣味と実益と健康と、一石三鳥というわけだ。」と本人は嘯き、なかなかの腕前であった。だがマスコミにパチンコの趣味を暴露されてからは、店内で「先生どうぞ。」と、玉のサービスをしてもらったり、桂米朝の「NHKビッグショー」出演のギャラにパチンコ玉交換券を貰うなどの目にあい、寛寿郎は「有難迷惑や。」と苦笑していた。落語家林家木久扇の憧れの人であり、『笑点』でも時々アラカンの物まねをする。また、笑点の伸介の何でもコーナーにゲスト出演した際に木久扇と共演した。

1992年4月2日、中村玉緒、勝新太郎、清川虹子と麻雀をしている最中に倒れ急性心不全のため死去、62歳没。兄想いだった弟の勝新太郎は、カメラの前でその遺骨を食べ、涙を流した。その勝も5年後の1997年6月21日、下喉頭ガンのため65歳で死去した。東映に、新東宝の後輩、菅原文太が移籍し、若山に挨拶に行った際、若山は「もう安藤んとこの若い衆になったのか?」「なってません」「そーか!ならワシんとこの若い衆になれ!」と気にかけるほど菅原を可愛がっていた。菅原が1969年に東映で初の主役をもらう事になった際、菅原を妬んだ東映生え抜きの役者連中が若山に「菅原が天狗になってます。何とかしてください。」等と告げ口した。菅原自身は若山には礼を尽くしていたので、若山はなかなか告げ口を信じなかったが、遂にとりまき達に乗せられ、「そうか、分かった。アイツ自身のためにみんなの前で殴る」と菅原を殴ることに。

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