関連作品とTVドラマ

事情により生家を出奔した大石は、武州日野の大工のもとに住み込みで働いていた。この大工が、名主佐藤彦五郎に出入りしていた事で、大石は彦五郎の道場に通うようになる。剣術はここで上達したようだ。元治元年6月の池田屋事件後、近藤勇が九月から十月にかけて江戸に戻り隊士募集を行った。大石はその時入隊した。慶応3年6月 新選組が幕臣に取り立てられると、大石は諸士調役兼監察に任命された。

『鬼平』連載開始の翌年1968年には担当編集者の求めによって自伝的随筆『青春忘れもの』を執筆。旧友「井上留吉」という架空の人物を登場させたが、観劇・読書・旅行・食べ歩きを楽しんだ青春時代の思い出を戦前の兜町を舞台として描いたこの作品は読者からつよい支持を受けた。翌1969年にはNETテレビで『鬼平犯科帳』が連続ドラマ化され、さらに1971年には同シリーズ中『狐火』を舞台化。いずれも主演は八代目幸四郎で、特にテレビ版は時代ものの作品として高い評価を受け、以後の評価を不動のものとした。『鬼平』の連載は「オール讀物」誌上にあって依然好調であり、1968年に単行本第一巻が刊行されて後、『兇剣』、『血闘』、『狐火』、『流星』と年一冊のペースで新作が世に送り出された。江戸の市井を舞台とした作品でも、幡随院長兵衛を描いた『侠客』、忠臣蔵に取材した『編笠十兵衛』、大石内蔵助を主人公とした『おれの足音』などの作品が発表された。1972年には「小説新潮」1月号に「剣客商売」を発表した。京都の古書店で偶然見かけた歌舞伎役者二代目中村又五郎をモデルに、孫のような少女と夫婦になって隠棲する老剣客秋山小兵衛を描き出し、朴訥誠実で世に疎い小兵衛の長男大治郎、田沼意次の娘である女剣客佐々木三冬といった人物を周囲に配して、江戸市井に起こる事件を解決していく同シリーズも人気を博した。同年「小説現代」3月号に『おんなごろし』を発表。同誌6月号には第二作『殺しの四人』が掲載され、この作品は年末に小説現代読者賞を受賞。仕掛人という言葉は流行語となり、朝日放送で『必殺仕掛人』として連続ドラマ化された。翌1973年には『鬼平犯科帳』を「オール讀物」1月号〜12月号に、『剣客商売』を「小説新潮」1月号〜12月号に、『必殺仕掛人』を『小説現代』2、7、9、10月号に同時並行で連載した。その一方で『雲霧仁左衛門』、『剣の天地』といった小説作品や、随筆『食事の情景』なども執筆された。また、73年には「池波正太郎自選傑作集」全五巻を立風書房から刊行。仕掛人ものの『春雪仕掛針』がふたたび小説現代読者賞を受賞し、四月から『剣客商売』がテレビドラマ化、『必殺仕掛人』は映画化された。1974年、「週刊朝日」誌上の『真田太平記』が加わり、翌1975年には小説の発表が「鬼平」「剣客」「梅安」「真田」の四種のみとなった。74年にはこのほか『男振』の執筆もはじまり、2月には『必殺仕掛人』が映画化、11月には『秋風三国峠』が新国劇で上演され、75年には『梅安最合傘』で三たび小説現代読者賞受賞。劇作においても、新国劇のほかに、歌舞伎にも脚本を提供するようになり、1975年には原作、脚本両方を含め、『出刃打お玉』、『剣客商売』、『必殺仕掛人』『手越の平八』の五つの舞台に係わり、翌1976年にはさらに『黒雲峠』、『江戸女草紙・出刃打お玉』、『侠客幡随院長兵衛』を上演。このうち『黒雲峠』と『江戸女草紙』では演出も担当した。

文久3年3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身、壬生浪士組を結成。藩主松平容保が京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなる。同日、斎藤を含めた11人が入隊した。試衛館以来の近藤の同志で、近藤と一緒に上洛したという説もあるが、少なくとも、斎藤の上洛は近藤とは別行動だった。もっとも、近藤とともに上洛した者たちにしても、統一行動をとっていたわけではない。その後、新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。一般的に新選組幹部で一番若いと思われているのは沖田総司であろうが、最年少は斎藤である。のち、組織再編成のさいには組長となり、さらに撃剣師範なども務めた。慶応3年3月伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱する際に行動をともにしたが、のちに新選組に復帰した。御陵衛士の活動資金を盗んだためだという説やもともと新選組の間諜として潜入していたのだという説もあり、この時期の行動についてはその事実関係や動機が明確になっていない。新選組が伊東を暗殺した油小路事件は、斎藤が復帰の際にもたらした情報に基づいて起きたという説もある。

明治42年、桑名市の自宅で死去。享年71。戊辰戦争時、回天隊隊士として各地を転戦後、蝦夷地へ渡る。明治2年1月、箱館で土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争における箱館総攻撃により、新政府軍上陸地寒川で戦死。享年30。

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