以上の主な出典と漫画原作

慶応3年3月伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱する際に行動をともにしたが、のちに新選組に復帰した。御陵衛士の活動資金を盗んだためだという説やもともと新選組の間諜として潜入していたのだという説もあり、この時期の行動についてはその事実関係や動機が明確になっていない。新選組が伊東を暗殺した油小路事件は、斎藤が復帰の際にもたらした情報に基づいて起きたという説もある。同年12月7日の天満屋事件の際には、紀州藩の依頼を受けて、紀州藩士三浦休太郎を護衛していた。海援隊士らの襲撃のとき三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり、宮川信吉と舟津釜太郎が死亡したほか、梅戸勝之進が斎藤をかばって重傷を負うなどの被害を出したものの、護衛には成功している。慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦い、3月に甲州勝沼の戦いと転戦。いずれも最前線で戦った。近藤が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らといったん別れ、隊士たちの一部を率いて会津へ向かった。一方、このとき斎藤は負傷して戦列を離れており流山にはいなかったという説もある。こちらの説では、隊士を率いて会津に向かったのは粂部正親または安富才助とされている。土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着き、斎藤らと合流した。

1927年、十一代目片岡仁左衛門が、稽古のとき、「踊りが下手だ」と有望な若手俳優の顔面を真剣で殴打した。その場に居合わせた寛寿郎は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」と衝撃を受け、映画界入りを決意したという。なお、その時の殴られた俳優はのちの片岡千恵蔵であった。1931年、アメリカの活劇俳優のダグラス・フェアバンクスが来日の折、滞在先の京都ホテルで寛寿郎は英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす。」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダゴラス!」のみであった。1951年、鞍馬天狗の「杉作」役で共演した美空ひばりについて、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。…男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる。」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。

1974年、睦五朗に招かれて東宝で『エスパイ』に出演。敵役のウルロフを怪演。特徴的な髪型は、若山の考案だった。また、クランクインの際、ひとつのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらったという。白塗りの二枚目から悪役、豪放なアクション時代劇俳優へとアクの強い路線を歩んできた若山だが、70年代後半に大きな転機が訪れる。1977年公開の東宝映画『悪魔の手毬唄』の磯川警部役と1978年から放送されたNHKドラマ『事件』の菊池弁護士役は、ともに優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、共に大評判となったことから一挙にイメージチェンジが浸透した。あまり賞に縁がなかった若山だが、この年『悪魔の手毬唄』と、『姿三四郎』の村井半助役で第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の『衝動殺人 息子よ』で、戦前からの大スター・高峰秀子と共演を果たし、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール、日本アカデミー賞などの主演男優賞を受賞した。

元治元年には京都見廻組を率い、新選組と共に尊攘派志士から恐れられ、蛤御門の変にも出動。元見廻組隊士今井信郎の証言から、慶応3年の京都近江屋での土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされる。戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、樟葉で腰に銃弾を受けて重傷を負い、和歌山に敗走中紀三井寺で死去。享年35。墓所は和歌山県和歌山市の紀三井寺、福島県会津若松市「武家屋敷」内。

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