あらすじ

幕末、会津藩主で京都守護職の松平容保の支配下にあった京都の治安部隊。隊員数、約60名。京都の治安部隊としては、他に旗本、御家人で構成された京都見廻組があり、浪士(町人、百姓身分を含む)で構成される新撰組は会津藩預かりという非正規部隊であった(後年、近藤ら幹部は幕臣となった)。新選組はいわば“佐幕派の人斬り集団”であり、池田屋事件などで京都に潜伏する過激派尊王攘夷論者や不逞浪士の取り締まりにあたった(本来は捕縛することが目的なのだが、逃げようとしたり、斬りかかって来る不逞浪士があまりにも多かったため斬殺した)。その一方で、局長の近藤勇らは新選組内部で凄惨な権力闘争を行い、敵対勢力を容赦なく殺害した。内規に反した等として粛清された者は相当数にのぼり、一説には勤皇志士との斬り合いで死亡した者より、粛清で落命した者の方が多いともいう。

文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩の郷士・清河八郎の建策を受け入れ将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。 翌年文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士達は将軍上洛に先がけ、浪士組として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平主税之介、鵜殿鳩翁、窪田鎮克、山岡鉄舟、中条金之助、佐々木只三郎らが任じられた。京に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が露見する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護の為の京都残留を主張。 鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退、殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし新選組の前身である「壬生浪士組」(「精忠浪士組」とも)を結成。 壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36人余の集団となった壬生浪士組は、京都守護職松平容保(会津藩主)より、主に尊攘激派(勤王倒幕)浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を任される。 同年8月に起きた八月十八日の政変に出動し、壬生浪士組はその働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。なお、隊名は武家伝奏(当時は野宮定功と飛鳥井雅典)から賜ったという説と、松平容保から賜ったという二つの説がある。後者の説は、会津藩主本陣の警護部隊名を容保からもらったという意である。

文久3年9月、近藤・土方ら試衛館派は、芹沢ら水戸派を粛清して隊を掌握し、近藤を頂点とする組織を整備する。元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では尊王攘夷派の蜂起の計画を未然に防ぎ、禁門の変に参戦(ただし池田屋事件に関しては尊皇派の陰謀が事実であったかどうかは証拠に乏しく史疑もある)。 池田屋・禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩より感状と200両余りの褒賞金を下賜されると、元治元年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200人を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺(京都市下京区)へ本拠を移転する。慶応3年(1867年)夏頃には幕臣に取り立てられる。 慶応3年3月、伊東らの一派は思想の違いなどから御陵衛士を拝命して隊から分派するが、同年11月、新選組によって粛清される。

慶応3年11月に徳川慶喜が大政奉還を行った。以降旧幕府軍と共に鳥羽・伏見の戦いに参戦するも、新政府軍に敗北。その後、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へと移動。 新選組は幕府から、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ甲陽鎮撫隊へと名を改め出撃するも敗戦。甲州勝沼の戦いの後、江戸に戻ったが、方針の相違から永倉新八、原田左之助らは分離して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動するも、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病であった肺結核の悪化により江戸にて死亡。 新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、会津では斎藤一等が離隊。その後蝦夷共和国の成立を目指す榎本武揚らに合流し、二股口の戦い等で活躍する。新政府軍が函館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた新選組を助けようと土方ら数名が助けに向かうが土方歳三が銃弾に当たり死亡し、食料や水も尽きてきたので新選組は降伏した。旧幕府軍は函館の五稜郭において新政府軍に降伏した。